芝山巌事件と六士先生

  • 投稿日:2023年 4月19日
  • テーマ:その他


台湾は明治28年(1895年)4月17日の下関条約によって日本領となりました。
この年、文部省学務部長心得の伊沢修二は日本全国から集めた7人の優秀な人材を連れ、
台湾に渡り、台北北部の士林に「芝山巌学堂」という最初の学校を開き、日本語を教えました。
生徒はわずか6名からのスタートです。
この頃の台湾は多民族でそれぞれ言葉が通じませんでした。
これより日本語が共通となり、民族間で会話が可能になるほか、
日本語を学習することにより日本語で書かれた近代学問書が読めるようになっていくのです。

明治28年の暮れ、近衛師団長として台南に出征していた北白川親王宮能久親王が
マラリアで不帰の客となってしまい、伊沢修二は7人の先生のうち一人を連れて、
親王の棺とともに一時帰国します。
この伊沢修二の留守の間に悲劇が起こります。

この頃の台湾は内地人を敵視するゲリラ、匪賊がおり、
周辺住民は教師たちに再三退避を勧めましたが、
「もとより教育とは命がけなもの」として聞き入れようとしませんでした。

明治29年(1896年)元旦、6人の教師と一人の用務員が
新年の参賀会に出席するため、芝山巌を下山しようとしたとき、
百人の抗日ゲリラに取り囲まれ、惨殺されてしまいます。

台湾の教育に情熱を捧げ、教育者として殉職した六人の教師は
多くの人に感銘を与え「六士先生」(六氏先生とも)呼び、
その精神は「芝山巌精神」と今も讃えられているそうです。つづく

       石川シュウジ

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【六人の教師の名前】

山口県、楫取道明 (38歳、楫取素彦の次男、吉田松陰の甥)

愛知県、関口長太郎(37歳)

群馬県、中島長吉 (25歳)

東京都、桂金太郎 (27歳、東京府士族)

山口県、井原順之助(23歳)

熊本県、平井数馬 (17歳)


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