芝山巌事件のその後
- 投稿日:2023年 4月20日
- テーマ:その他
明治29年1月の事件後、日本政府はすぐさま暴動を武力で鎮圧。
身に危険が及んでも武器を取ることなく信念を貫いた彼らを、
台湾の人たちは手厚く葬り、墓を建てました。
その後、芝山巌は「教育の聖地」とされ、命をかけて教育の必要性を説いた姿は
「芝山巌精神」として人々の間で語り継がれるようになりました。
明治29年7月、芝山巌学堂のそばに「學務官僚遭難之碑」が建てられました。
時の内閣総理大臣伊藤博文が揮毫し、側面には教師6人の名前が記されています。
昭和5年には台湾教育に殉じた人々を祀る芝山巌神社が創建され、
今も毎年2月1日に慰霊祭が執り行われています。
しかし、日本が戦争で負けると芝山巌の景色が一変します。
台湾から撤退するとすぐに中国国民党は『學務官僚遭難之碑』を倒し、
六氏先生の墓や芝山巌神社も破壊され、本殿があった場所に
蒋介石の側近の国民党軍統局副局長、戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられました。
1958 年には「芝山巌事件碑記」という碑が設置されます。
今も建つその碑には、日本人を襲ったゲリラは「義民」に、
惨殺された教師は侵略者の手先のように記されており、
芝山厳は反日教育の場として利用されるようになりました。
権力者の世代が変わって民主化の動きが進むと、次なる転機が訪れます。
1995年、芝山巌学堂の後身となる士林国民小学校で
開校百周期年の祝賀式典が行われた際、
卒業生有志によって「六氏先生之墓」が再建され、
2000年には倒れたままになっていた「学務官僚遭難之碑」も元に戻されました。
芝山巌を取り巻く状況は、時代とともに変遷していきます。
尊い信念を持って台湾教育の礎を築いた六氏先生。
悲しい歴史ですが、日本人として一度は訪れておきたい場所になりますね。合掌
石川シュウジ