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錦木塚の伝説

  • 投稿日:2018年 12月 2日
  • テーマ:その他

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大相撲の四股名・錦木を名乗った初代は錦木塚右衛門(本名:小田島音蔵)と言います。
この錦木塚という名前の由来については北上史談会等では特に資料や証拠がありませんが、私が勝手に妄想するには錦木塚伝説からとったのではないかと思っています。

錦木塚は実際に秋田県鹿角市十和田錦木地区にあります。
この地区に伝わる悲しい物語があり、室町時代に世阿弥によって全国に知られるようになります。
(残念ながら現在はほとんど知る人はいません)

「錦木塚の伝説」
千数百年前、都から来た狭名大夫が錦木あたりを治めていましたが、その八代目の
大海に狭布の細布を織るのが上手な美しい娘、政子がいました。
その頃、草木の里に錦木を売るのを生業としている若者がいました。
そして、ある日、若者は赤森の市で偶然出会った政子に一目惚れします。
当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家の前に錦木をたて、それを女が
家の中に取り入れると嫁いでもいいという習わしがありました。
そこで、若者は錦木を恋した政子の家の前に立てます。
若者は、雨の日も、大嵐の日も、吹雪の日も毎日立て続けます。
政子はそんな様子を見て若者に好意を抱くようになりましたが、父、大海が
身分の違いを理由に反対された為、錦木は家の中に取り入れられることは
ありませんでした。
そのことを知らない若者は、あと一日で錦木が千束になるという日、政子の
家の前で降り積もる雪の中、帰らぬ人となってしまったのです。
それを知った政子も嘆き悲しみ、若者のあとを追いこの世を去ります。
事情を知った大海は二人の悲恋を哀れに思い、若者の亡骸を貰い受け、
千束の錦木とともに夫婦として一緒の墓に葬ったのでした。
その墓が「錦木塚」と呼ばれて今に伝えられているのです。

この「錦木」の話は、平安時代後期に歌枕として読まれていましたが、
室町時代になって、能の創始者である観阿弥の子、世阿弥によって
謡曲「錦木」として広く世に広まることとなりました。

また、母方の祖先を鹿角市毛馬内に持つ「石川啄木」も、この話を
金田一京助から聞き、錦木塚を訪れ「鹿角の国を懐う歌」をつくっています。

初代錦木塚右衛門は、自分の相撲を日々鍛錬し積小為大と成すことを祈願して名付けたのでしょうか。
現在の錦木関は9月25日に婚姻届を出しましたが、きっと錦木塚伝説のように毎日自分の思いを伝えたのではと妄想しています。お幸せに!





大相撲・錦木塚右エ門 (初代)2

  • 投稿日:2018年 12月 1日
  • テーマ:その他

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北上史談会「北上の先人」によると、1761年に和賀郡黒岩村万内(北上市黒岩)に一人の怪童が誕生したある。
成長とともにその怪力ぶりが南部公の認めるところとなりそのお抱え力士となった。
23歳の時に江戸に出、三代伊勢ノ海村右衛門部屋から滝の上音蔵(喜蔵とも)の四股名で西幕下尻に張りだされた。この滝の上については史談会では触れていないが、私が思うに故郷黒岩にある「お滝さん」に由来しているように思う。
さて5年後に錦木塚右衛門と改名し、45歳で当時の番付最高位の大関になった。
しかし相撲の世界は厳しくその後体調を崩し相撲を休むことが多く、二所ノ関軍右衛門を名乗り、改めて二所ノ関初代年寄りとなり弟子育成に当たることになる。
その後部屋は繁栄に繁栄を重ねて、現在の二所ノ関・佐渡が嶽・二子山・放駒・尾車・鳴門・・・
など、多くの横綱を張った力士を育てた。
部屋の繁栄とは逆に、同力士は社交が下手だったために、晩年は不遇で郷里黒岩に帰りさびしく終わったという話が伝わている。
昭和17年(1942)9月17日、初代二所ノ関の供養相撲が黒沢尻(北上市)で行われた前日、大関・玉の海、関脇・佐田の花、神風の当時相撲界の名力士3人が正洞寺を訪れ、ねんごろに初代二所ノ関を排し帰られたのであった。




大相撲・錦木塚右エ門 (初代)1

  • 投稿日:2018年 11月30日
  • テーマ:その他

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錦木というしこ名は盛岡藩お抱え力士が代々名乗った名前である。
ところで最初に錦木を名乗ったのは、二所ノ関部屋の開祖である
大関二所ノ関軍右衛門(1760~1823)になります。
この初代は北上市黒岩の出身で名を小田島音蔵と言います。
四股名を錦木塚右衛門として文化元年(1804)に江戸相撲の最高位の大関に就きます。
年二場所、一開催10~13日の当時、体重109Kgの錦木は、幕内を24場所務め60勝しています。
引退後、初代二所ノ関軍右衛門を名のり多くの弟子を育成しました。
なかでも、甥の小田島音吉(1790~1832)四賀峯音吉は、八戸藩お抱えの大関を10場所務めています。
写真の化粧まわしには、盛岡藩のお抱えを示す違い菱の印紋があしらわれています。
明日は、北上市出身の小田島音蔵について書きます。
つづく・・・

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