みちのく忠臣蔵~相馬大作事件~
- 投稿日:2023年 7月11日
- テーマ:本
先日、利用者様が読んでいる本が気になり声を掛けてみると、「相馬大作事件」に関する本だという。
「石川さんなら知っているよね?」と問われても、残念ながら知らない。
そこで、早速「文政四年の激震〈相馬大作事件〉を購入して読んでみると、面白い。
というより、知らないでいたことが恥ずかしい!
盛岡藩の家臣だった大浦氏が作った弘前藩は、豊臣秀吉の小田原征伐の時、
当主の大浦(津軽)為信がいち早く小田原へ参陣し、秀吉から所領を安堵され正式に大名となった。
元家臣が大名に成り上がったことに盛岡藩は激怒。これが両藩の確執の始まりであり、江戸時代も続くことになる。
文政三(一八二〇)年、盛岡藩の藩主・南部利敬が、三十九歳の若さで急死。
養子で十四歳の利用が後を継ぐが、若さゆえに無位無官であった。
その頃、石高の見直しがあり十万石となった弘前藩は、藩主の津軽寧親が従四位下に叙せられていた。
盛岡藩で兵学を教えていた相馬大作は、家臣筋の弘前藩が、官位で上になったことに悲憤慷慨し、
寧親に辞官隠居をしないと実力行使に出るとの果たし状を送る。
この警告が無視されたため、大作は大砲と鉄砲で武装した盛岡藩士を率い、
江戸から弘前へと帰る寧親の大名行列を襲撃するのである。
結局この襲撃は仲間の密告によって失敗、大作は藩を出て江戸に逃れますが、
同年幕吏に捕らえられ翌年獄門の刑に処せられます。
しかしこの事件によって寧親は隠居に追い込まれたことから、
結果的には秀之進の目的は達せられたということになります。
この事件は、主君の仇を討った赤穂四十七士になぞらえ、"みちのく忠臣蔵"とも呼ばれ、
幕末から明治にかけては講談や芝居の人気演目として江戸庶民にも親しまれていたという。
幕末には、長州藩の吉田松陰が東北遊歴の旅で、大作を偲び漢詩を読んでいます。
当時の過熱ぶりが伝わってきます。
江戸庶民の、「南部びいき」のベースには、源義経の「判官びいき」が
見え隠れしていると考えるのは旧南部生まれの私だけでしょうか!
石川シュウジ