「世界友情の日」と「一に人 二に人 三に人」
- 投稿日:2022年 2月22日
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今日は「世界友情の日」になります。
ボーイスカウト・ガールスカウトの創始者ロバート・ベーデン=パウエル卿夫妻の
誕生日が同じこの日であることにちなんで、
1963年(昭和38年)のボーイスカウト世界会議で制定し、
1965年(昭和40年)から実施されました。
夫婦で同じ誕生日とは、よほどのご縁があって生まれたと想像いたします。
さて、ボーイスカウト日本連盟の初代総長は、後藤新平先生です。
後藤はスカウト運動の普及のために自ら10万円の大金を日本連盟に寄付し、
さらに全国巡回講演会を数多く実施しました。
ボーイスカウトの制服姿の写真が現在も残っています。
制服姿の後藤が集会に現れると、彼を慕うスカウトたちから
「僕等の好きな総長は、白いお髭に鼻眼鏡、団服つけて杖もって、いつも元気でニコニコ」と
歌声が上がったといわれております。
周囲の大人からは「後藤さんも、もっと早く総理大臣になるようなことをしたらいいのに、ガキ大将とは・・・」といって笑われても、いっこうに平気だったようです。
後藤が生来のガキ大将であったことは誰もが認めるところではありますが、
晩年将来の人材の育成に尽力したことは、後藤の信念を貫いた生き方だといえます。
満鉄の総裁時代の人材登用では「午前八時主義」が有名です。
目覚めたばかりの若い人材を用いるというのが「午前八時主義」で、
トップの後藤は50歳、副総裁の中村是公は40歳、営業担当の理事に
抜擢された最年少の犬塚信太郎は32歳でした。
後藤は「一に人 二に人 三に人」という言葉も残しています。
現代の日本は「5時から主義」ですが、一に人は不変です。
石川シュウジ
母ちゃんを通わせたい施設10「奪う罪」
- 投稿日:2022年 2月21日
- テーマ:
母の為に暖かい家を新築し、温度差と段差がなく快適な空間を作り、
なに不自由ない生活を提供した私。
これでやっと親孝行できると少し安堵しておりました。
家の中には段差が無く、杖があれば自分で歩ける母なのですが、
日中一人で居ることが多いので転倒するのが一番の不安となります。
そこで私は車椅子を準備、床がフラットなので家の中で自由に動けることを優先させました。
母は立って家事をすることができなくなってきたため、
お昼ごはんも妻が朝に作ったものを電子レンジで温めて食べるように準備。
介護用のベッドを購入し、電動で楽な姿勢で立ち上がれるように設置。
もちろんトイレや洗面所、浴室には手すりを取付て安全を確保します。
次第に、考えられるリスクをできる限り排除した家となっていきました。
しかし母の口からは「早く死にたい!」を繰り返すばかりです。
今振り返ってみると、母のやりたいことを私が奪っていったことになります。
自分で歩いていた母が車椅子を頼り、歩けなくなっていきます。
料理の得意だった母が、次第に包丁を使って果物さえ切れなくなっていきます。
ペンを持ってハガキに文字が書けなくっていきます。
商売人だったので話好きの母ですが、声が出なくなっていきます。
全て病気のせいで次第に弱くなっていったものと私は解釈していました。
私がやったことは母の残存能力を活かすのではなく、逆に奪っていくことだったのです。
残存能力の低下は、気力の低下となっていき、しまいには「早く死にたい!」となったのです。
この経験から、コンパスウォークでは無理強いはしませんが、
おせっかいを焼きたい人には役割を持たせることも大事だと考えています。
「Aさん、洗濯したタオルを畳んでいただけますか?」
「Bさん、いいよ!」
「Aさん、どうもありがとう!」
きっと母は家族のおせっかいを焼くのが、生きがいだったに違いありません!
石川シュウジ
母ちゃんを通わせたい施設10「奪う罪」
- 投稿日:2022年 2月21日
- テーマ:理念
母の為に暖かい家を新築し、温度差と段差がなく快適な空間を作り、
なに不自由ない生活を提供した私。
これでやっと親孝行できると少し安堵しておりました。
家の中には段差が無く、杖があれば自分で歩ける母なのですが、
日中一人で居ることが多いので転倒するのが一番の不安となります。
そこで私は車椅子を準備、床がフラットなので家の中で自由に動けることを優先させました。
母は立って家事をすることができなくなってきたため、
お昼ごはんも妻が朝に作ったものを電子レンジで温めて食べるように準備。
介護用のベッドを購入し、電動で楽な姿勢で立ち上がれるように設置。
もちろんトイレや洗面所、浴室には手すりを取付て安全を確保します。
次第に、考えられるリスクをできる限り排除した家となっていきました。
しかし母の口からは「早く死にたい!」を繰り返すばかりです。
今振り返ってみると、母のやりたいことを私が奪っていったことになります。
自分で歩いていた母が車椅子を頼り、歩けなくなっていきます。
料理の得意だった母が、次第に包丁を使って果物さえ切れなくなっていきます。
ペンを持ってハガキに文字が書けなくっていきます。
商売人だったので話好きの母ですが、声が出なくなっていきます。
全て病気のせいで次第に弱くなっていったものと私は解釈していました。
私がやったことは母の残存能力を活かすのではなく、逆に奪っていくことだったのです。
残存能力の低下は、気力の低下となっていき、しまいには「早く死にたい!」となったのです。
この経験から、コンパスウォークでは無理強いはしませんが、
おせっかいを焼きたい人には役割を持たせることも大事だと考えています。
「Aさん、洗濯したタオルを畳んでいただけますか?」
「Bさん、いいよ!」
「Aさん、どうもありがとう!」
きっと母は家族のおせっかいを焼くのが、生きがいだったに違いありません!
石川シュウジ