「形」から入って「心」に至る
- 投稿日:2023年 7月16日
- テーマ:その他
先週の社長アカデミーで、環境整備のお話をほんの触りだけしました。
アカデミーの最後にスタッフさんからの感想をシェアする場がありました。
その中に「環境整備は、心を揃えるためにすることを、初めて知りました。」
という感想がありましたので、少し深堀りいたします。
私は物を揃えることが苦手です。つい使った物を出しっぱなしにする癖があります。
今から20年程前に友人に誘われ、(株)武蔵野さんに見学に行ったことがありました。
「環境整備で会社が劇的に変わる!」という誘い文句に惹かれたのです。
そこで学んだ一つは、「『形』から入って『心』に至る」というものです。
例えば、「心を込めてありがとう」を言わなくても良のです。
「形だけでもありがとう」と言っていると、感謝する理由を脳が探し始め、
次第に心から言えるようになるものなのです。
二つ目は、人の心は瞬時に移ろうことです。
先ほどまで談笑していた人と、急に気まずくなることもありますよね。
目の前の物が揃ってないことに気が付けない人は、
他人の心の変化には到底気が付けないというのです。
この二つから、形だけならば「口からでまかせ男の私でも出来る!」と勘違いし、
環境整備を始めた訳です。(未だに恥ずかしいレベルですが・・・)
会社や組織のトップとして一番やらなければならないことは、
そこに集まる人の心をひとつにすることになります。
組織を船に例えると、どんなに優秀な漕ぎ手を集めてもバラバラでは、前に進みません。
よもや進んでもそのスピードは本来持っている能力から程遠いものです。
しかし小さな船でも、船長の指揮の下で力を合わせれば荒波さえも
乗り越えることができるのだと信じています。
環境整備には、物を探す時間を減らすという効果がありますが、
何よりも大切なのは、心を揃えるための手段であるということです。
まずは「形」から入って「心」に至る。これが正しい順番です。
石川シュウジ
錦木塚伝説の知名度
- 投稿日:2023年 7月15日
- テーマ:その他
昨日は「錦木塚の伝説」についてお伝えしましたが、
この「錦木」の話は、平安時代後期に歌枕として読まれていました。
一例を挙げると
思ひかね 今日立て初むる 錦木の 千束も待たで 逢ふ由もがな 『詞花和歌集』大蔵卿匡房
室町時代になって、能の世阿弥による謡曲「錦木」として広く世に広まることとなります。
旅の僧が、陸奥の狭布の里で、女は細布を、男は錦木を売る夫婦に会った。
この細布と錦木のいわれを尋ねると、細布は鳥の羽を混ぜて織った布で、
実らぬ恋の思いを例えたもので、錦木は女の家の門に立てて求婚のしるしにする彩色の木であると答え、
]錦木塚に案内して二人はその中に消えた。
旅の僧が、その塚を弔っていると夢にその二人が現れ、
過ちを悔い改める物語をし、仏の救いを得た喜びの舞を舞った。
明け方になり僧の夢は覚め、二人の姿は消え失せた。
この謡曲は、500年余りを経た現在も能舞台で演じられているようです。
さらに、母方の祖先を鹿角市毛馬内に持つ「石川啄木」も、
この話を金田一京助から聞き、錦木塚を訪れ、長詩「錦木塚」(明治37年)、
「鹿角の国を懐う歌」(明治38年)のなかで錦木塚を詠んでいます。
実は私が知らないだけで、かなり全国的に錦木塚の伝説は知られていたようです。
以上のことから推測するに、初代錦木塚右衛門(後の二所ノ関軍右衛門)は四股名に、
あえて知名度のある「錦木」を使ったものと考えられます。
きっと初代錦木は盛岡藩出身の力士であることを誇りにしていたのでしょう。
石川シュウジ
錦木塚伝説
- 投稿日:2023年 7月14日
- テーマ:その他
歴代盛岡藩お抱えの力士が錦木という四股名を名乗った由来について書いてみます。
由来となった錦木塚は、今の秋田県鹿角市(旧盛岡藩領内)にある塚で、
男女の悲恋の物語が多くの歌人に筆を取らせた歌枕で著名な地になります。
そこで錦木の下の名前も塚右衛門とか塚五郎と塚が多いのです。
「錦木塚の伝説」
千数百年前、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、
大海(おおみ)という人に政子姫という大変美しい娘がいました。
東に2里ほど離れた大湯草木集落に錦木を売り買いしている
黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいて、娘の姿に心を動かされました。
当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家の前に錦木をたて、
それを女が家の中に取り入れると嫁いでもいいという習わしがありました。
そこで、若者は錦木を恋した政子の家の前に立てます。
若者は、雨の日も、大嵐の日も、吹雪の日も毎日立て続けます。
政子はそんな様子を見て若者に好意を抱くようになりましたが、
父、大海が身分の違いを理由に反対された為、
錦木は家の中に取り入れられることはありませんでした。
そのことを知らない若者は、あと一日で錦木が千束になるという日、
政子の家の前で降り積もる雪の中、帰らぬ人となってしまったのです。
それを知った政子も嘆き悲しみ、若者のあとを追いこの世を去ります。
事情を知った大海は二人の悲恋を哀れに思い、若者の亡骸を貰い受け、
千束の錦木とともに夫婦として一緒の墓に葬ったのでした。
その墓が「錦木塚」と呼ばれて今に伝えられているのです。
悲しい伝説ですが、広く世に広まった経緯については明日お伝えします。
現在の大相撲の錦木関が、愚直に稽古する姿には、
錦木塚伝説に通じるものがありそうですね!
石川シュウジ
































