3.11に祈る

  • 投稿日:2018年 3月11日
  • テーマ:その他


今年も忘れてはならない日がやってきた。2011年3月11日東日本大震災。
岩手県の内陸に住む私はその日、大きな揺れに驚きはしたが私の会社はほとんど被害を受けなかった。
しかしながら停電が続いたために社員は早退という事で会社を閉めた。(その時点では沿岸の被害など全く知らなかった)
家には介護が必要な母と一緒に暮らしており電気が無いと困ると考え、帰宅がてら建築機械リース会社に立ち寄り発電機をお借りしようとした。ところが既に全て借りられており1台も残っていなかった。
そのリース屋の店長が「調子が悪く調整しようとしている故障中の発電機ならある」と言ってきた。
まあダメ元でよいと考え借りることとした。
車のラジオで沿岸地区が津波にのまれ大きな被害が出ているらしいことを繰り返し伝えている。
(かなり大変な様子が伝わってくる)
自宅に帰ると家の停電しており、先に帰宅した妻と母そして2人の息子たちはローソクの明かりの下に集まっていた。我が家はオール電化の住まいだが、高断熱高気密住宅のため停電でも22度を保つ快適な状態であった。
借りてきた発電機に多少の不安を抱きながらせスターターロープを引いてみる。何度か引いているうちに無事に始動した。
コードリールを家の中に引き込み投光器を点灯すると拍手が起こった。
口々に「お父さんスゴイ!」などといわれ父の好感度がアップ。
次にTVのコードを差し込み電源を入れてみた。
画面から流れてくるのは各地の津波の映像ばかり。
TVの映像をみて初めて今回の被害も大きさを知った。
IMG_3396.JPG
それから数日間は停電が続いたが、故障中の発電機は何の問題もなく動き大活躍することとなる。
さてこの写真は震災から15日後の陸前高田市にある集合住宅のものである。
(当時ガソリンがなく、被災地に行くのであれば自己完結できない人は行くべきでないと判断し約2週間経ってしまった。実際物見雄山に出掛けた人も多かった。)
陸前高田市のお隣に大船渡市があり、数多くの友人が暮らしていた。その中でも特に親しい友人と震災後連絡が取れず死んだものと思っていた。
25日、何度もケイタイに電話していたら偶然繋がりビックリして聞いてみた。「生きていたのか?」
大船渡市内の電波状況が悪く、その友人がたまたま小高い山に登った際に偶然つながったようだ。
私:「何か必要なものはないか?」
友人:「おかげさまで全国から物資が届き、特別に欲しいものはない。しいていうならガソリンとドコモのケイタイかな!情報がなくて困っている。SBやauはダメだ!」
私:「分かった即ドコモのスマホ届けるよ!」
友人:「それとこんな事を言っては失礼だが・・・食べ物は何とかなるが子どもたちのお菓子があれば助かる。子どもたちが我慢しているのが辛くてな!」
私はその足でドコモショップに行き、一番高性能のスマホを購入。オセンに行き野菜とお菓子を買い集めた。
翌日26日に中学生の三男を連れて大船渡へ。
何度も行き馴れたはずの大船渡であったが様子が全く違い、友人宅へ行く道が分からない。
何度も車を降りて道を聞くが、直ぐに迷ってしまう。私は自分のいる場所が分からず、軽いパニック起こしていた。
普段は何かしらの目印を目安に運転しているのだろう。
そんな時三男が「お父さん、このスマホで地図を出せば分かるよ!」
この一言で我に返り、スマホを操作。
息子を連れてきて良かったとつくづく思った瞬間だった。
主要な道路は車が通れるようにはなっていたが、排除できないガレキもあり真っすぐに進むことも出来ない状態。
テレビで見てはいたが、実際に現場で観ると声が出ない。
無事友人宅に到着し再会を果たすことができた。
友人の家は幸いにも大きな被害は無く安堵した。

7年経っても初めて見た景色が頭から離れることはありません。
しかし多くの犠牲者を出した日に、こんな自分の思い出を書いて何の役に立つのだろうか?
もっと違うことを書こうかとキーボードを叩いてみたが、結局は自分の体験しか書くことができない。
今年も北上から東を仰いで手を合わせるばかりである。
今日は静かに祈ります。





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