しこ名錦木のいわれ
- 投稿日:2017年 11月26日
- テーマ:その他
南部相撲ゆかりの四股名として特筆されるのが錦木です。
初代・二所ノ関が錦木塚右衛門を名乗っていたと言うのは前記の通りですが、その後も南部相撲からは5人の錦木が出ております。(現在前頭15枚目の錦木徹也関を含め)
ちなみにしこ名の由来になっている錦木塚といふのは今の秋田県鹿角市(旧南部藩領内)にある塚で、男女の悲恋の物語が多くの歌人に筆を取らせた歌枕で著名な地になります。
そこで錦木の下の名前も塚右衛門とか塚五郎が多いのです。
「錦木塚の伝説」
千数百年前、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、大海(おおみ)という人に政子姫というたいへん美しい娘がいました。東に2里ほど離れた大湯草木集落に錦木を売り買いしている黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいて、娘の姿に心を動かされました。
当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家の前に錦木をたて、それを女が家の中に取り入れると嫁いでもいいという習わしがありました。
そこで、若者は錦木を恋した政子の家の前に立てます。
若者は、雨の日も、大嵐の日も、吹雪の日も毎日立て続けます。
政子はそんな様子を見て若者に好意を抱くようになりましたが、父、大海が身分の違いを理由に反対された為、錦木は家の中に取り入れられることはありませんでした。
そのことを知らない若者は、あと一日で錦木が千束になるという日、政子の家の前で降り積もる雪の中、帰らぬ人となってしまったのです。
それを知った政子も嘆き悲しみ、若者のあとを追いこの世を去ります。
事情を知った大海は二人の悲恋を哀れに思い、若者の亡骸を貰い受け、千束の錦木とともに夫婦として一緒の墓に葬ったのでした。
その墓が「錦木塚」と呼ばれて今に伝えられているのです。
この「錦木」の話は、平安時代後期に歌枕として読まれていましたが、室町時代になって、能の創始者である観阿弥の子、世阿弥によって謡曲「錦木」として広く世に広まることとなりました。
また、母方の祖先を鹿角市毛馬内に持つ「石川啄木」も、この話を金田一京助から聞き、錦木塚を訪れ「鹿角の国を懐う歌」をつくっています。
さて以上のことから推測するに、初代錦木塚右衛門(後の二所ノ関軍右衛門)はしこ名に、あえて全国的に知られている「錦木塚」を使ったものと考えられます。南部出身の力士であることを誇りにしていたのでしょう。