「ムラ」の正体をみた



パワーハラスメントやセクシュアルハラスメントの問題、
官僚の「忖度(そんたく)」の問題などがニュースをにぎわしている。
学校や職場内で頻発する「いじめ」は、どれほど対策が叫ばれても、
一向に解消する気配は見られない。

「個人」の権利が尊重されているはずの私たちの「社会」は、
いったいどうなっているのだろう。

今日ある地域の先輩から呼び出された。
以前から相談していた件があったので馳せ参じた。
ご自宅を訪ねてみるとその先輩の他に
直接話したことのない三名の長老たちがそこにいた。
直観的に「ムラ長」だと感じた。

「ムラ」の「構成員」は、基本的に同質でなければならない。
「構成員」の「個」が際立つことは歓迎されない。
「ムラ」では慣習や前例が重んじられ、
「空気」という名の不文律によって秩序立てられている。
「構成員」はその不文律に忠実であることが求められている。


「ムラ」は「構成員」の上下関係によって相対的に立ち位置が決まる「タテ社会」である。
この上下関係は年齢や所属年数、経験年数などによって決まってくる。

日本語には、英語のyouに相当する普遍的二人称代名詞が無い。
相手が目上である場合に、「お父さん」「先輩」「先生」「部長」といった
役割や肩書きを呼称として用いなければならない。
同時に、自分を指す一人称代名詞も、
相手との関係性によって「俺」「僕」「私」といった具合に、
ころころ変化させていく。
それは親子や夫婦が、固有名詞の名前で呼ばずに
役割で読んでいることからもはっきりしている。

私たち日本人の社会はいまだに「個人」が尊重されていない。
明治の文明開化以降、近代国家の概念や制度を採り入れたものの、
その内実は依然として「ムラ」のままであり、法秩序よりも「世間」が実権を握っている。

今回の訪問で、長老の中のムラ長が口を開いた。
私がこれからやりたいことに対して
「積極的には応援しない!」と言ってきた。
「それぞれが個人として自由なのだから
やめろとは言わない!」と続ける。

どうやら私は「ムラ」の求める同質性の
ストライクゾーンから外れてしまっているようだ。
「シカト」ではなく「村八分」だ。

わざわざ私を呼び出して話すことでもないために
反論する気にもならない。
私は「温かく見守ってください!」と
挨拶をして帰路についた。

「ムラ」という言葉の語源は「群れる」からきている。
「群れる」とは、自立していない未熟な者が取る行動である。

今回ハッキリと、「ムラ」の正体をみた。
自分のない0人称の人間が集まっているのがムラだ。
このムラ長が亡くなっても、次のムラ長は
序列で世襲されていく。

今日本が抱えている問題は、それ自体が問題なのではない。
0人称の「ムラ」意識が日本の一番の問題である。

あらゆる日本が抱える問題を
「ムラ」という切り口でみると
全てが腑に落ちてくる。
若い人が政治に関心がないのではない。
この「ムラ」から飛び出すのが怖いだけである。

私が一人称の「個人」として生きることで、
この因習に満ちた「ムラ」を根底から
「社会」に変えていく突破口となる。

ますます面白くなってきた。







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