達谷窟毘沙門堂
- 投稿日:2024年 1月15日
- テーマ:その他
日曜日に平泉の達谷窟毘沙門堂を尋ねてみる。
達谷窟毘沙門堂は、延暦20年征夷大将軍坂上田村麻呂公の創建以来、一千二百余年の歴史を誇る護国の精舎で、その祭事を執行する別當の達谷西光寺は、翌延暦21年奥真上人によって開かれたとある。歴史書にも「毘沙門天ノ化身来タリテ我国ヲ護ル」と記される様に、大将軍の本地を毘沙門天と見なす『田村信仰』の発祥地として、国の史跡に指定されています。
およそ千二百年の昔、惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を 拐さらう等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は、坂上田村麿公を征夷大将軍に蝦夷征伐の勅を下された。
(達谷窟毘沙門堂公式ホームページより)
同じ様な説明が、現地の看板にも書かれてあります。ところで惡路王・赤頭・髙丸等の蝦夷が乱暴な振舞いをしたとあるが、実際はどうだったのでしょうか?
歴史を学ぶ上で、正史=正しいのではありません。これは、正論=正しいと同じことで、特に歴史は勝者の歴史に書き換えられる場合があるからです。
征服された者からみる歴史を逆史と呼ぶが、歴史は逆から考察してみるとその当時の人物が生き生きと躍動してみえるものです。
京の都からみて、まつろわぬ民と呼ばれた私たちのご先祖様。ご先祖様を供養する霊場として手を合わせたい。
石川シュウジ