私とスポーツ「節目の数だけ強くなれる」

  • 投稿日:2021年 9月18日
  • テーマ:理念


スポーツの秋ですね!といいながらこのコロナ禍を言い訳にして、運動できていません。
本来は人一倍身体を動かすことが好きな私ですので、私のスポーツ遍歴を紹介いたします。

生まれた時から健康優良児(死語ですね)として育った私は、
小学6年生で167㎝、中学3年生で180㎝と健やかに育ちます。
最高183㎝でしたが、現在は182㎝と若干縮みました(笑)。

中学校でバスケットボール部に入部。
身長の伸びに筋肉や循環器の成長が追いつかず、背が高いだけのデクノボウ。
特にも長距離走が苦手でした。井の中の蛙で大海を知りませんでした。

高校ではバスケ部に入りますがやはり練習についていけず1カ月で退部。(挫折1)
次に短距離走には自信があったので陸上競技部に入部。
ところが自分より早い人ばかりでショックを受けます。(挫折2)
走る競技には選択肢がなく、仕方がなく誰もやらないハンマー投げを選択。
ハンマー投げの指導者はいませんので、独自での練習となります。
時折円盤投げも遊びでする程度のお荷物選手。(挫折3)

ところが上半身を鍛えたら短距離が次第に早くなっていきます。
2年の秋には、なんと400Mリレーのメンバーに選ばれます。
それもエース区間の2走を担当することになりました。

これには事情があります。当時顧問だった故遠藤恒治先生の命令で、
「石川一走だ!」と決定。ところが「石川、スタート遅いな!」(挫折4)
の一言で3走へ配置換え。
ところが「石川、コーナー走下手だな!」(挫折5)
ということで残りは2走と4走。
最後に「石川のアンカーはないだろう!」(挫折6)
という消去法で2走となりました。
(一旦走ると早い、しかし真っ直ぐしか走れないのは今も同じです)
これが幸いしてか2年秋の新人戦では県で3位という結果を残したのです。

3年春のインターハイ予選会では、リレーで予選・準決勝と一位のタイムで通過。
サブ・トラックでは我が物顔で、肩で風を切って走っておりました。
遠藤先生からは「お前ら優勝するのか?!」と冷やかされます。
たまたま一位通過しただけで、三番手というのは本来の実力でした。

しかし「優勝」の二文字が頭にチラつきます。そして迎えた決勝。
緊張のあまり硬くなり、なんと7位と惨敗です。
天国から地獄へと真っ逆さまに突き落とされた瞬間でした。(挫折7)

ここから「勝ちたい」のと「負ける訳がない」との差は、大きな開きがあることを学びました。

陸上競面白さは、努力した結果が数値として出ることです。
リレーは伝統校の重み、仲間の信頼をを背にしながらも、
自分の実力以上の走りができるのが魅力でした。

その後1年浪人(挫折8)して大学へ入学。
サークル活動を何にするのかが楽しみでした。
私は個人競技ではなく団体競技から選ぶことにします。
なんとなく男子ソフトボール部に惹かれて入部。
半分遊びのつもりで選択しましたが完全なる部活で、上下関係が厳しいものでした。

早速、歓迎コンパが開催されます。
その冒頭で新入部員は、自己紹介と希望するポジションを発表する場が与えられました。
私は「ピッチャーがしたいです!」と宣言。
周囲の先輩からは
「おまえ、野球やったことがあるのか?ピッチャーってなんだか知っているのか?」
と野次が飛びます。
ど素人が意気込んで飛び込んだ世界でしたが、
結局大学4年間では全く芽がでませんでした。(挫折9)

合わせてソフトボールとパチンコに明け暮れたために、
1年留年(挫折10)して大学卒業。

地元北上市に帰ってきて家業を継ぎますが、
ソフトボールは北上クラブに入り続けます。
当時北上クラブには佐々木茂雄さんという大エースがいて、
東北で1、2位を争う強豪クラブでした。
ほとんど試合に出る機会もなく、
打撃練習の投手として4年の歳月が過ぎていきます。
後から入団した後輩が先に出場するのを羨ましくみていました。(挫折11)
ほとんど腐った状態で監督やチームメイトに文句ばかり言っていたことが思い出されます。

そんな状態が続く中、ソフトボールマガジンで目に止まった星野昭先生のビデオテープを購入。
当時5万円程でしたが、どうしても強くなりたくて清水の舞台から飛び降りるほどの覚悟での出費でした(笑)。
とてもシンプルな理論で、目からうろこが落ちる音がするほど衝撃的でしたね。
現在のオリンピック金メダルの上野由紀子投手にもつながる、画期的な指導方法と言えると思います。

ビデオを見た翌日から劇的に自分が変わっていくことを実感したものです。
腕の振りが良くなるので、ボールスピードが上がる。
変化球が切れる。コントロールが良くなる。
更にバッティングが良くなると、すべてが好転していきました。
結局38歳まで現役としてマウンドに立ちました。

この時の気づきは、どんなものにも原理・原則があるということです。
どんなに努力しても自己流では限界があるのです。
ちなみに私のウィングショットはドロップでした。
これには理由があって、高校時代に遊びで円盤投げをした癖が残っており
いとも簡単に落とすことができたのです。
手足が長いこと。陸上部で足腰が強かったこと。突然ピッチャーになりたいと宣言したこと。
マイナーな競技を選んだこと。遊びで円盤を投げたこと。
最後には全てつながったのです。

スポーツを通して私の人生を振り返ってみると、
沢山の挫折がありました。
その時は挫折と感じておりましたが実は節目だったのですね。
しかもその節目の数だけ強くなれたのは間違いありません。

 良き週末お過ごしください。

                       代表取締役 石川シュウジ


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