錦木塚伝説の知名度

  • 投稿日:2023年 7月15日
  • テーマ:その他

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昨日は「錦木塚の伝説」についてお伝えしましたが、
この「錦木」の話は、平安時代後期に歌枕として読まれていました。
一例を挙げると

 思ひかね 今日立て初むる 錦木の 千束も待たで 逢ふ由もがな 『詞花和歌集』大蔵卿匡房

室町時代になって、能の世阿弥による謡曲「錦木」として広く世に広まることとなります。

旅の僧が、陸奥の狭布の里で、女は細布を、男は錦木を売る夫婦に会った。
この細布と錦木のいわれを尋ねると、細布は鳥の羽を混ぜて織った布で、
実らぬ恋の思いを例えたもので、錦木は女の家の門に立てて求婚のしるしにする彩色の木であると答え、
]錦木塚に案内して二人はその中に消えた。

旅の僧が、その塚を弔っていると夢にその二人が現れ、
過ちを悔い改める物語をし、仏の救いを得た喜びの舞を舞った。
明け方になり僧の夢は覚め、二人の姿は消え失せた。

この謡曲は、500年余りを経た現在も能舞台で演じられているようです。

さらに、母方の祖先を鹿角市毛馬内に持つ「石川啄木」も、
この話を金田一京助から聞き、錦木塚を訪れ、長詩「錦木塚」(明治37年)、
「鹿角の国を懐う歌」(明治38年)のなかで錦木塚を詠んでいます。

実は私が知らないだけで、かなり全国的に錦木塚の伝説は知られていたようです。

以上のことから推測するに、初代錦木塚右衛門(後の二所ノ関軍右衛門)は四股名に、

あえて知名度のある「錦木」を使ったものと考えられます。

きっと初代錦木は盛岡藩出身の力士であることを誇りにしていたのでしょう。

      石川シュウジ



錦木塚伝説 

  • 投稿日:2023年 7月14日
  • テーマ:その他

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歴代盛岡藩お抱えの力士が錦木という四股名を名乗った由来について書いてみます。
由来となった錦木塚は、今の秋田県鹿角市(旧盛岡藩領内)にある塚で、
男女の悲恋の物語が多くの歌人に筆を取らせた歌枕で著名な地になります。
そこで錦木の下の名前も塚右衛門とか塚五郎と塚が多いのです。

「錦木塚の伝説」

千数百年前、鹿角が狭布(きょう)の里と呼ばれていた頃、
大海(おおみ)という人に政子姫という大変美しい娘がいました。
東に2里ほど離れた大湯草木集落に錦木を売り買いしている
黒沢万寿(まんじゅ)という若者がいて、娘の姿に心を動かされました。

当時、男は女を妻にしたいと思うと、その女の家の前に錦木をたて、
それを女が家の中に取り入れると嫁いでもいいという習わしがありました。
そこで、若者は錦木を恋した政子の家の前に立てます。

若者は、雨の日も、大嵐の日も、吹雪の日も毎日立て続けます。
政子はそんな様子を見て若者に好意を抱くようになりましたが、
父、大海が身分の違いを理由に反対された為、
錦木は家の中に取り入れられることはありませんでした。

そのことを知らない若者は、あと一日で錦木が千束になるという日、
政子の家の前で降り積もる雪の中、帰らぬ人となってしまったのです。
それを知った政子も嘆き悲しみ、若者のあとを追いこの世を去ります。

事情を知った大海は二人の悲恋を哀れに思い、若者の亡骸を貰い受け、
千束の錦木とともに夫婦として一緒の墓に葬ったのでした。
その墓が「錦木塚」と呼ばれて今に伝えられているのです。

悲しい伝説ですが、広く世に広まった経緯については明日お伝えします。

 現在の大相撲の錦木関が、愚直に稽古する姿には、
錦木塚伝説に通じるものがありそうですね!  

     石川シュウジ



錦木関と北上市の関係

  • 投稿日:2023年 7月13日
  • テーマ:その他

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大相撲7月場所ですが、目が離せなくなっていますね。
岩手県盛岡市出身で東前頭筆頭の錦木は初日から、
横綱や、大関取りの3関脇を総なめする無傷の5連勝。
来場所は、三役入りも現実的なものと岩手県民は盛り上がっています。

錦木という四股名は盛岡藩お抱え力士が代々名乗った名前になりますが、
最初に錦木を名乗ったのは、二所ノ関部屋の開祖である大関二所ノ関軍右衛門(1760~1823)になります。
この初代は、北上市黒岩(奥州和賀郡)出身の小田島音蔵と言います。

四股名を錦木塚右衛門として文化元年(1804)に江戸相撲の最高位の大関に就きます。
年二場所、一開催 10~13 日の当時、体重 109Kg の錦木は、幕内を 24 場所務め 60 勝しています。
引退後、初代二所ノ関軍右衛門を名のり多くの弟子を育成しました。

なかでも、甥の小田島音吉(1790~1832)四賀峯音吉は、八戸藩お抱えの大関を 10 場所務めています。
写真の化粧まわしには、盛岡藩のお抱えを示す違い菱の印紋があしらわれています。

・錦木塚右エ門 (初代) 伊勢ノ海部屋 大関

・錦木塚五郎(初代) 二所ノ関部屋 小結

・錦木繁之助(錦木盤之助)雷部屋 関脇

*埼玉県出身だが盛岡藩お抱えになり改名

・錦木塚五郎(2代)二所ノ関部屋 小結

・錦木塚右エ門(2代)二所ノ関部屋 前頭筆頭

・錦木繁之助 竹縄部屋 十両筆頭

*香川県出身だが盛岡藩お抱えになり改名

・錦木徹也 伊勢ノ海部屋 東前頭筆頭

錦木関の活躍は本人の地道な努力のおかげなのですが、
きっと四股名の由来を意識しての精進だと考えます。

頑張れ!錦木関!

石川シュウジ



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