100点モデルを持つ
- 投稿日:2021年 10月19日
- テーマ:理念
「後藤新平先生に学んだ日本精神の遺徳と"100点モデル"を持つことの大切さ」
このDVDの中で角田識之さんは、情報洪水時代の現代は
「小物」「偽物」「流行り物」が溢れる時代であると言います。
逆に「大物」「本物」「不易」はあえて探さないと見つからない時代でもあります。
次の「本物」との痺れる出逢いが人生を大きく変えるのです。
①本物の本「古典」
②本物の人物
③本物の企業
まずは自分にとっての100点モデルを見つけ、その真似をすることが重要です。
100モデルを目指すと半分でも50点の到達点です。
10点モデルを目指すと満点でも10点が到達点です。
最近の小学生や中学生に「尊敬する人は誰ですか?」と質問すると、
「お父さん、お母さん!」という答えが返ってきます。
親とすれば嬉しいのですがそれで本当に良いのでしょうか?
角田識之さんの歴史上の100点モデルは、後藤新平先生です。
後藤新平先生ならこの問題にどのように対応するのかを頭に置きながら考えることを常としているといいます。
この後藤新平先生の遺徳が残っている国が台湾です。
今でも台湾で最高のも最高の褒め言葉として
「きみは日本精神(リップンチェンシン)が身についているね!」と使われるそうです。
この日本精神(リップンチェンシン)とは、次の様な人を指します。
髙い志を持ち、「私にできること」を見つけ、無我夢中でそれに打ち込み
喜びを周りに惜しみなく分け与えることが出来る人。
あなたには100点モデルがありますか?
代表取締役 石川シュウジ
偉人や歴史を学ぶ意義
- 投稿日:2021年 10月17日
- テーマ:理念
ここ数日岩手県の偉人について触れてみた。
台湾で岩手の3賢人と呼ばれている、
後藤新平、新渡戸稲造、伊能嘉矩を短く説明するのは大変なことでした。
拙い説明ではありましたが、これを機に3人に関心を持って欲しいものですね。
ところで偉人について偉そうなことを書いてきましたが、中学、高校と
歴史が大嫌いな生徒でした。理由は年表を覚えるのが苦手だったからです。
多少は語呂合わせで覚えたこともあるが、どうも自分とかけ離れた時代のことであり、
歴史上の人物の名前に興味を持てなかったのが理由になります。
そんな私がなぜ偉人に興味を持つようになったのでしょうか?
きっかけは一冊の本「李登輝学校の教え」になります。
李登輝・台湾前総統と漫画家小林よしのりが白熱対談した本です。
当時、新しい歴史教科書をつくる会が作った教科書が社会問題になっていました。
従来の歴史教科書が「自虐史観」の影響を強く受けているとして、
戦後の歴史観を否定する新たな歴史教科書をつくる運動を進めていました。
マスコミは猛反発します。結局この教科書を採用した公立学校はありませんでした。
そんな世相の中、私は「李登輝学校の教え」を読み、
かつて岩里政男と名乗っていた李登輝さんが日本に対してエールを送っていることに驚いたのです。
歴史には光と影があることを彼から学んだのです。
彼は農業経済を学ぶために京都大学に入学します。
理由は農業経済の専門家、新渡戸稲造を尊敬していたからです。
私の中で岩手と台湾が初めて繋がった衝撃的な瞬間でした。
ここから暫くは地元の偉人新渡戸稲造先生について調べる旅が始まります。
新渡戸の書いた「武士道」についても、「武士道解題」として分かりやすく李登輝さんが解説しています。
歴史を学ぶというのは年表を覚えるのではなく、
その時代の背景をある一人の人物を通して学ぶことなのです。
あなたには誰か気になる偉人はいませんか?
代表取締役 石川シュウジ
台湾人類学の先駆者
- 投稿日:2021年 10月16日
- テーマ:理念
台湾で岩手の3賢人と呼ばれている伊能嘉矩先生についてお伝えいたします。
実は岩手県人でも、伊能嘉矩という名前さえ知らない人が大半ではないかと思います。
4年前の2017年(平成29年)は、伊能嘉矩生誕150年記念事業が
生まれ故郷の遠野市で開催され、その特別展を妻と見学したことがあります。
伊能嘉矩は慶応3年(1867)、横田村新屋敷(今の遠野市東舘町)の
代々南部家に仕える学者の家系に生まれました。27歳のとき坪井正五郎に
師事して人類額を学びます。
明治 28 年(1895)伊能は学んだ人類学を実践するための新しい場所を求めて、台湾に渡ります。
伊能は台湾総督府で仕事をしながら様々な種族の言語・習慣・生活様式等の調査に情熱を傾け、
各地現地調査により、先住民族を9つの種族に分類します。
伊能は原住民の生活に溶け込む努力をし、民俗的な物品を収集し、
原住民の狩猟や農耕等の生活技術を観察し、地域信仰や道徳体系、地域社会の禁忌を理解しました。
伊能の人類学調査には鮮明な現実的目標がありました。
それは植民地における民衆構造や経済状況、社会的組織の状況を全面的に理解することによって、
原住民の教化や植民地の開拓に関する日本政府の政策決定に資することにありました。
この調査を基にして、民生長官の後藤新平は様々な施策を講じます。
中でも当時台湾に蔓延していた阿片に対し中毒患者漸減政策をとります。
阿片を専売にして登録した中毒患者にのみ販売し、新たな中毒者の発生を防ぎ、
50年ほどかけて阿片中毒者を根絶するというものでした。
伊能の書いた「台湾藩政志」は、現在でも台湾では種族系統研究のバイブルとして
高い評価を得ていることは、私たち県民の誇りですね。
代表取締役 石川シュウジ
































